川村英司 2005‐2006年度 第3回レクチュア・コンサート

 

(通算 第18回)

2006年4月8日  15時00分

於:Studio Virtuosi

 

Hugo Wolf 作曲 aus “Spanisches Liederbuch”

 フーゴー・ヴォルフ作曲 「スペイン 歌の本」 より

 

バリトン:川村  英司 

ピアノ:  由輝子 

 

今回は一年振りにヴォルフの作品に戻りました。僕の一番好きな作曲家といっても過言でないほど気に入った歌曲を作曲した作曲家がヴォルフです。

 

彼は1852年にベルリーンのWilhelm Hertz社から出版された “ Spanisches Liederbuch” von Emanuel Geibel und Paul Heyse (290頁余) からなるドイツ語訳の詩集から宗教歌曲10曲と世俗歌曲34曲を選んで作曲しました。1891年にドイツのマインツにあるショット社から初版が出版されました。

 

ヴォルフ歌曲のなかでは一部の曲を除いてあまり歌われる事はないようですが、スペインを思わせる特徴的な曲が沢山あります。ドイツ、オーストリア人は南に対する憧れは大きく、イタリア、スペインには今でも夏のヴァカンスには大勢が押し寄せます。勿論物価が安いと言うのも一つの理由ですが、太陽光が多い!情熱的だ!と言うのも理由のうちでしょう。

我々日本人にとってスペインのイメージはどうでしょうか?日照時間の長い日本では太陽が多く見られると言う理由は成り立ちませんが。

 

Geistliche Lieder 宗教歌曲

 

宗教詩13の中から1、2、3、4、5、6、7、8、10、9番を10曲にまとめて宗教歌として作曲しました。

今日は最初にその中からマリアの夫ヨーゼフが疲れているマリアを労わって歌う「さあ、歩くのだよ、マリア」から始めます。

 

Nun wandre, Maria  (3番目)  作者不詳、ハイゼ訳

この曲「さあ、歩くのだよ、マリア」 の思い出は、初めてヴィーンでヴェルバ教授のクラスアーベントで歌ったのですが、歌えといわれたのが音楽会の2週間か10日前で、しかもその直前にドイツからヴィーンに留学していた工科大学の学生とオーストリア第二の高峰グロース・フェネディガーにスキー登山をする事になっていました。どちらもキャンセルしたくなかったので、メロディーを覚える前に詩を覚えることにした最初の歌です。氷河を見ながらの楽しいスキー登山をした後で、伸び伸び歌ったのですから、若かったのです。28歳の時でした。またその何年か後に同じ曲を歌わされた時の事です。 Schon krähen die Hähne und nah ist der Ort. と言う言葉が4回繰り返されるのですが、3回目の時に「うっ!」と言葉が出てこなくなりました。 僕は何度も出てくるのだから全部抜かしてしまおうと、堂々と伴奏を聞いていましたが、伴奏してくださったヴェルバ教授はどうにかして僕を拾ってくれようとそれは親切に Krähen ---  die ---  Hähne--- , nah ---  ist ---  der Ort.--- と必死で言葉をつぶやいてくれるのです。僕は途中から入るより全部抜かした方がみっともなくないと平然としていたのです。しかもこの日の演奏会だけどうした事なのか録音されていたので、後で聴いて大笑いでした。いつも練習に付き合ってくれていて、この曲を良く知っているコレペティトーアのポール先生が「エリックは何故興奮してぶつぶついっていたのか?」と不思議がるほど僕は堂々としていて言葉を抜かした事に殆どの人は気がつかなかったようでした。ヴェルバ先生から常々「ミスをした時には僕の楽譜にはそう印刷されているんだという顔をしていろ!」といわれていましたので実践しただけの事でしたが。案外聴衆は気がつかないものです。

この曲では p から始まり ppp で終っています。途中に mf があるだけです。マリアをいたわって歩いているヨーゼフの歌なのですが、ベツレヘムを目指して遠ざかっていく感じが出せればと思っています。

 

 

Ach, des Knaben Augen  (6番目)  ロペス・デ・ウベーダ、パウル・ハイゼ訳

 

この「ああ、幼児の瞳は」 は宗教歌曲の中の歌ですので、幼な児の目(瞳)はキリストの目ですが、対象が変ればどうにでも歌える歌かと思います。そう考えることができるのは、宗教心が無い僕だからでしょうか?出来るだけ宗教心が分かったような気持ちで歌う事が大切かと思います。

と言うと我々が歌うオラトリオの問題です。何度も「受難曲」のイエスを歌いましたが、イエスになった気持ちで歌う意外に歌う事は出来ません。一応キリストについていろいろその時その時の気持ちを想像して歌ったので、僕自身のキリストに対する固定観念が出来、ほかの人の歌うキリストを聴く時には、いろいろと表現の違いを想像してしまい、或る時にはこんなに闘争的なキリストでは、もっと民衆を扇動して自分の主張を通すだろうとか、狡猾に手を回し間違っても十字架に掛けられる事などにはならないだろうと思うのですが、各々の考えで色々なキリスト像が出来るのですから、面白いのです。

 

 

Herr, was trägt der Boden hier  9番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

この曲「主よ、この地にはなにが芽生えるのでしょう」 はキリストと信者(罪深い我々)との対話です。キリストに質問する信者とキリストの声の違いは両者を如何に心の奥底で感じるかで、表現の違いが出てきます。

 

 

Weltliche Lieder  

 

Treibe nur mit Lieben Spott  4番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

「恋人をすきなだけからかうんだね」 は直ぐ恋人をからかう相手に因果応報を宣言する歌で、如何に嫌味を加えるかが表現のポイントだと思います。しかしこの種の歌曲は我々日本人には不得意なのではないでしょうか?諧謔的な表現は僕には中々難しいです。僕だけではなく日本人には難しいのかな?と思いますが、皆さんはどのように思われますか?

 

 

Auf dem grünen Balkon  5番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

この曲「みどりの窓から」 はセレナーデを奏でる伴奏形のなかで気のありそうなウインクをするのに、指では「だめよ!」 この「だめよ!」 ( sagt sie mir : nein ! ) この Nein が3回出てきますが、毎回タイミングが違い、その違いがユーモラスな表現に繋がっていると思います。(参考資料 1 

 

Wenn du zu dem Blumen gehst  6番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

「おまえが花苑へ行くのなら」 はスペインに限らず、どこの国の男性でも口に出したい言葉だと思います。勿論素直に言える人と、心で思っていても口に出せない人の違いはあると思います。口に出すのが不得意な人は日本人に多いと思いますが。僕の勝手な思い込みでしょうか?素直にこんなことを口に出せる人が羨ましいと思うのは歳を取った僕らの年代だけでしょうか?それとも僕だけかな?

 

Wer sein holdes Lieb verloren  7番目)  作者不詳、エマヌエル・ガイベル訳

 

「恋を取り逃がす男など」 の歌詞を読んで皆さんはどのようなとらえ方をされますか?恋を取り逃がす野暮な男は死んだ方がましだよ!と野暮な男を冷やかしているのですが、実はその野暮男が自分自身なのです。最後にもう一度最初の詩3行が繰り返されて野暮男(自分)に嫌味を言う気持ちをどのように嫌味に歌うかでとどめをさすと言うか、曲をどのように締め括るかと、僕は聴衆に回った時には興味を持ちます。

 

 

Herz, verzage nicht geschwind  11番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

「心よ、落胆するのはまだはやい」 については後で述べますが、女性が歌う曲 „In dem Schatten meiner Locken“ 「私の巻き毛のかげで」 も同様に「スペイン歌の本」の曲で、ヴォルフの唯一の完成したオペラ「お代官」(参考資料2)の中のアリアとしても取り上げられた歌です。第1幕第4場で好色なお代官が、夫のある女性フラスキータを横恋慕して言い寄るのを粉引きの夫ルーカスがぶどう棚の上でお代官には分からぬように隠れて、フラスキータがお代官にさも気があるかのようにからかって歌うアリアが „In dem Schatten meiner Locken“ です。このオペラは民衆がお代官をからかって痛い目に遭わせるスペインでの話で原作はアラルコンで、ローザ・マイレーダーが台本を作り、ヴォルフはこの2曲をオペラにアリアとして挿入しました。

話しは飛びますが、この曲の伴奏はボレロのリズムで奏でられますが、時々スタッカートが付いていないのに、スタッカートがついているように弾く方がいます。第1ページ(参考資料3)を見てください。最初に割合多い間違いのスタッカート入りで弾いていただき、次にヴォルフが作曲した通りのスタッカートなしで弾いて頂きます。ボレロと言うとラヴェルの曲が有名ですが、スタッカートでリズムを刻む事はしていないように思いますが、いかがでしょうか。両者を聴き比べてください。またブラームスもおなじ詩に作曲していますが、リズムは全く同じです。(参考資料4) 但しスタッカートにしています。

話しを戻しますが、オペラでは第2幕の第3場で、フラスキータが一人家にいて歌を歌っている所に、川に落ちずぶ濡れになったお代官がドアを叩きながらフラスキータに助けを求めて入ってきます。そのあとのごたごたした後の第6場で半分やけくそになって歌うのがこの曲 „Herz, verzage nicht geschwind“ です。この感じを込めるのが僕には中々難しいのですが、出来るだけ気持ちを込めて歌ってみます。

 

 

Ach, im Maien war’s  20番目)  作者不詳、パウル・ハイゼ訳

 

「ああ、それは五月のことだった」は監獄に囚われている人が、しかも夜になるのも、日中になったのも分からぬ状態で暮らしていますが、春の気配を知り、若いカップルの事も想像し、小鳥の鳴き声に心を和ませていましたが、鉄砲がなったら小鳥が殺されて、啼きき声も聴こえなくなった。唯一の楽しみを奪った狩人にひどい罰を与えたまえ!と叫んでいるように詩の表側では感じますが、皆さんはどこまで想像いたしますか?

 

Alle gingen, Herz zur Ruh  (21番目)  作者不詳、エマヌエル・ガイベル訳

 

「すべてのものは、心よ、憩っている」 恋の悩みに苦しんでいる若者の歌で、二連音符と三連音符を効果的に使っている曲です。

 

何か思い当たる質問がありましたらどうぞ遠慮なく!

2005_6年度 御案内へ